イベントルポ「第3回オンライン被爆証言会」
2020.08.06イベントルポ「第3回オンライン証言会―HIBAKUSHAを世界へ伝える」
7月12日に第3回オンライン証言会を実施し、7歳のときに広島で被爆した児玉三智子さんにお話を伺いました。児玉さんは現在、住んでいる千葉県で精力的に署名を集めてくださっています。
Youtubeに動画も上がっていますので、ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=eGxJFC0Q4_M&t=656s
1945年8月6日までのはなし
私は1938年に広島で生まれました。まさに戦時中です。富国強兵が国是(こくぜ)となっている時代で、戦争が続いていました。中学生、女学生は学校へなかなか行けず、私の中学生の従妹は毎日工場へ行き、勉強をしたくてもできない日々が続いていました。1941年からは太平洋戦争がはじまり、学徒動員も開始され、学生が戦場へ行くようになりました。東京大空襲をはじめ、日本国土が焦土化してきて、「もう戦争はやめたほうがいいのではないか」という声も聞こえてきました。1945年の4月から6月は沖縄戦がありましたね。私も沖縄に行ったときにおばあに話を聞きました。原爆と地上戦とは違う戦争ですが、人が亡くなるという意味は一緒です。
原爆投下当日に見たもの
8月6日は木造校舎の教室の中にいました。私は転校生で、その学校に転校してまだ間もなかった頃です。私の席は一番前の窓際でした。原爆投下時刻は8時15分と言われますが、その時間だったことはあとになって知りました。校庭に出ようか迷っているときに、窓の外からものすごい光がうわーっとせめてきて、ピカッと光って、窓ガラスが割れて飛び散りました。私は瞬間的に机の下にもぐって気を失っていました。窓ガラスが飛び散って、机や椅子に突き刺さり、私にも刺さりました。
学校の保健室で大きなガラスを抜いてくださいました。当時の学校の保健室は名ばかりのもので、お薬も包帯もガーゼもなにもない保健室でした。保健室にかけてあったカーテンを裂いて、包帯替わりにしてくれました。父が学校までに迎えに来てくれたので、父の背中におぶさって帰りました。
実は転校する前は広島の爆心地近くの相生橋のすぐそばの学校に通学していました。建物疎開のため、引っ越しをして転校をしました。転校前まで通っていた学校は教師と児童合わせて400人くらいましたが、全員骨も拾えないような状態で亡くなったとあとで聞きました。もし建物疎開で移動しなければ、家族全員亡くなっていました。
家まで帰る途中には見たこともないような光景が広がっていました。皮膚が焼けてぶら下がっていて、眼球が爆風で飛び出していて、腸がぶら下がって抱えている人や、真っ黒の赤ちゃんをしっかりと抱いているお母さんを目にしました。広島の原子爆弾は地上600mのところで炸裂しました。放射線と熱線と強力な爆風と衝撃波がうわー、うわーっと町の中を襲ったんです。一瞬のうちに町中が炎に包まれました。
今でも目に突き刺さって忘れられない光景があります。それは私と同じくらいの年齢の女の子だったと思います。顔の半分が焼けただれていて、着ているものもほとんどなくて、私のほうを見るんです。それで目で訴えるんです。「助けてください。水をください。」って。もう声が出ないんです。でも助けることができなくて。そのときはマヒ状態で何が起こったのか、わかっていませんでしたが、あとから考えると本当につらいです。その女の子の目が今でも私に突き刺さっているんです。父は足早に通り過ぎましたが、私は気になって後ろをみていました。その女の子は倒れていました。その後どうなったのか分かりません。今でも思い出すと涙が出てきます。父は私を家において、爆心地近くの親戚を探しにでかけていきました。3日くらい経って従兄を連れて帰ってきましたが、彼は翌日に亡くなりました。
広島を出るまで
爆心地近くに住んでいた親戚は私の家に避難してきました。その中に従妹のお姉ちゃんがいました。私が大好きなお姉ちゃんでした。当時女学生で、その日は爆心地近くで作業をしていました。顔がほとんどズルズルで、背中から足まで焼けただれて、足には釘が突き刺さっていました。そのお姉ちゃんが来た時にあまりに姿が違うので、最初は誰か気づきませんでした。「みっちゃん」と呼ぶ声でお姉ちゃんだと気づきました。
焼けただれた背中にウジが沸いてそれを取るくらいのことしかできませんでした。お姉ちゃんは3日目の朝に小さな声で「水、水」と言ったので、急いで井戸から水を汲んで持っていきましたが、それを飲む間もなく亡くなりました。14歳でした。
9月の初めごろに従妹のお兄ちゃんが亡くなりました。10歳のお兄ちゃんは私と同じで軽症でしたが、とにかくすごく下痢をしていました。その日もお手洗いに何回も行っていて、出てきたと思ったら私の目の前で鼻血を垂らして、血の塊を吐いて亡くなりました。
それからいろんなことがありましたが、成人して就職をしました。ですが、被爆者というだけで不採用になったりしました。
就職先で知り合った方と結婚することになり、彼のお家に行ったんです。そしたら、彼の親戚がたくさん集まっていて、おじさんに「結婚をしたいと聞いたので、あなたの素性を調べさせてもらった。あなたの素性には何も問題はないけれど、被爆者をうちの家系に迎えることはできない」と断られました。当時は私も若かったのでとても辛かったです。
その後お友達の紹介で別の方と結婚することになりました。断られた経験があるので、会うつもりはなかったんですが、「あなたのことを被爆者と分かったうえで会いたい」と言われ、会う決心をし、結婚しました。夫は被爆者ではありません。結婚してしばらくは広島にいましたが、夫の転勤で移動することになりました。ほかの場所に行ったときは、「被爆者」であることはもちろん、「広島の出身」ということも言えませんでした。
自分が被爆者だと感じた瞬間
千葉へ引っ越ししたとき、体調を崩したときがあって、近くの医院へ行きました。そのときは被爆者手帳を頂いていたんですけどね。受付で保険証と被爆者手帳を出したら、受付の人が「あの人は被爆者よ」って言っている声が待合室の人たちにも聞こえたんですね。そしたら私の近くの椅子に腰をかけていた幼稚園くらいの子を連れていた若いお母さんが、私のそばから席を移ったんです。被爆からこんなに時間が経ったのに、千葉はあんまり被爆者と出会う機会がなかったからなのかもしれないけど、まだこんな差別があるのかと心が傷つきました。
証言をはじめたきっかけ
子どもが小学校のときに、先生や保護者を含めて読書会というのを行っていました。最初はごんぎつねとかをやっていて、ある日、その中で戦争の話をすることがありました。中国から引き揚げてきた方、大空襲を生き延びた話など、順番に話していて、私の番になりました。自分が被爆者だということはずっと言ってなかったんですが、「私は被爆者です」と言ってちょっとお話をしました。そしたら先生のほうから教職員組合の女性部で冊子を作るから私の経験を書いてほしいと言われました。とても文章では書けなかったので、詩のような短い言葉を書きました。それを先生が読まれて、「学校で話してもらえないか?」とお願いされました。それがだんだん広がって、いろんなところでお話をするようになりました。47歳の時にはじめてフィリピンに行って証言をしました。それから海外でもお話ができようになりました。
娘が受けた差別
子どもたちが結婚をするようになったときに、長女が相手の両親に会ったんです。そのときに「あなたのご両親は広島の方って聞いているけどまさか被爆者ではないでしょうね」って聞かれたんです。娘は「私の母は広島の被爆者です。ですから私は被爆二世です」って話したそうです。そうしたら特にお母さまが顔色を変えたそうです。私はそのときすごくつらかったです。娘は戦争も原爆も何も知りません。母親が被爆者であるということだけで、娘がこんなことを言われるのかと思って辛かったです。娘を授かったときに放射能の影響があるのではないかと心配していました。産もうと思うまでかなりの時間がかかりました。その娘が差別を受けて悔しかったです。娘は相手の両親の反対を押し切って結婚し、今ではかわいい孫もいます。
被爆者として壮絶な人生を送ってきた児玉さんの言葉には心を動かすものがありました。広島に原爆が落ちたときだけでなく、児玉さんの人生のストーリーを学生のみなさんにお伝えできたと思います。
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