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2025年10月01日

【開催レポート】平和・核廃絶キャリアフェス

 核廃絶国際デーを記念するイベント「平和・核廃絶キャリアフェス~『核兵器をなくす』を仕事にする」が9月27日、東京都港区の明治学院大学白金キャンパスで開かれました。各分野で仕事として核廃絶に取り組んでいる人たちが登壇して、自分のキャリアなどについて語り、グループに分かれて登壇者と参加者が交流しました。

 9月26日は核兵器の全面的廃絶のための国際デーで、2013年に国連によって定められました。核兵器廃絶日本NGO連絡会は、国連広報センターと共催で、2015年から毎年、記念イベントを開催してきました。27日のイベントは同連絡会と一般社団法人「核兵器をなくす日本キャンペーン」の主催、国連広報センターの共催で、開かれました。

 イベントの第1部では、平和・核廃絶に向けて様々な分野で活躍している6人が、それぞれの仕事に関するプレゼンテーションを行いました。最初にNGOの分野から核兵器をなくす日本キャンペーンコーディネーターの浅野英男さんが登壇し、「自分たちがこんな社会があったらいいと理想を掲げて、その理想の下にたくさんの人が集まって来て、みんなの手で力を合わせてそれを形にし、そのために行動していく。そういった取り組みをしているのがNGOだと思っている」と発言。

 大学2年の時に広島の平和資料館を訪れて強い衝撃を受け、「自分自身が核兵器廃絶のため、この歴史を繰り返さないために、何かできないかと思った」と振り返った浅野さん。その後、大学院に進学して平和学を専攻し、学業と並行して、核兵器廃絶日本NGO連絡会でのインターンシップにも参加。さらに米国のミドルベリー国際大学院モントレー校に留学し、核兵器をめぐる様々な政策に関して学んだ後、帰国して日本キャンペーンに就職しました。

 浅野さんは日本キャンペーンの大きな特徴として「超党派、超世代で取り組みをしていること」を挙げました。仕事の内容として①日本政府との対話、意見交換、②国会議員との対話、働きかけ、③市民社会の中での連帯を広げる、世論の形成、④国際的に様々なパートナーシップをつくっていく、の4つにつき、スライドを交えて紹介しました。

 次に登壇した外務省軍縮不拡散・科学部調査班長の新宮清香さんは、「広島」・「外交」・「学術」の3つを、自分を説明するキーワードとして挙げました。広島出身で被爆3世の新宮さんは、高校生だった2001年に起きた同時多発テロに衝撃を受け、「自分に何かできることはあるのか」と真剣に考え、「自分自身と自分の街を知ることから始めよう」と思い立ち、祖父の被爆体験を聞くなどの活動に取り組んできました。

 同じ高校生の時に、新宮さんは度重なる北朝鮮のミサイル発射や中国の軍備増強のニュースも目の当たりにし、安全保障という概念にも出会いました。そこでライフワークとして大事にしている原点の問い「日米同盟の下で日本をしっかりと守りながら、唯一の戦争被爆国として、どうやって核兵器のない世界にむけて一歩一歩、歩みを進めていけばいいのか」に出会ったといいます。

 東京で国際政治を学び、「実務の世界でこの問題をやらないと何も動かせない」と思った新宮さんは一念発起して勉強し、外務省に入省。7年目に軍備管理軍縮課に配属になりました。これまで、米ロやNATO関係、政府主催の賢人会議、軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI)、包括的核実験禁止条約(CTBT)などの問題に関わる仕事に携わってきたといいます。現在は不拡散科学・原子力課で不拡散問題や、軍縮不拡散・科学部調査班長として公開情報調査等を担当しています。

 外交の実務をやりながら学術の面でも取り組みを続けており、世界で唯一「不拡散」で修士号が取れるミドルベリー国際大学院モントレー校を卒業。その後、軍備管理の研究を深めるために一橋大学の博士課程に進学、24年に修了しました。新宮さんの原点の問いは現在でも変わっておらず、「実務と学術を両立しながら、広島を原点としつつ、日米同盟の下で日本をしっかりと守りながら、唯一の戦争被爆国として、どうやって核兵器のない世界にむけて一歩一歩、歩みを進めていけばいいのかについて考えながら、歩み続けている」と語りました。

 研究者の分野から登壇した長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)副センター長・教授の河合公明さんは、1989年に大学を卒業、非営利組織の社会的責任関連部門で30年余り仕事をし、平和運動に携わってきました。核兵器禁止条約の成立にも市民社会の立場から関わり、23年3月まではNGO連絡会の事務局も務めました。その中の出会いが人生に様々な影響を与えてきたが、とりわけ恩師と仰ぐ研究者から「専門性を磨くことの大切さ」を繰り返し説かれ、この言葉が進路を考えるうえでの大きな示唆になったといいます。

 核抑止論と核廃絶論がぶつかる場面を何度も経験し、そこから「建設的な議論のためにはどうすればよいのか」という問題意識が生まれ、「対話を成立させるためには、共通の基盤が必要。市民の思いを国際政治の場に届く言葉に翻訳するためには、相手にも理解できる共通言語が必要で、それが国際法なのではないか」との考えにつながりました。この気付きが、河合さんの大学院進学の大きな動機となりました。

 仕事と家庭と学業をどう三立できるかという大きな不安を乗り越えて、大学院に進学したのは、52歳の時。通学しながらの生活は時間との闘いで、眠気と格闘しながら課題を仕上げたといいます。最大のカベは「リサーチ・クエスチョン」(研究の問い)で、これを作るのに机の前で悩み続けました。長崎大学での博士課程では、日本の「核の傘」政策と国際法、という大きなテーマに取り組みました。

 23年からはRECNAで、研究、教育、社会貢献という仕事に携わっています。国際人道法が専門ですが、「兵器を使う側ではなくて、使われる側から考える」のが河合さんの姿勢です。「私は社会人で実務経験を積み重ねながら、理論を学ぶ大学院に行きました。振り返れば、双方の過程に意味がありました。両者を結びつけることで、自身の可能性を大きく広げることができました」と語って、話を締めくくりました。

 ジャーナリズム分野からは、中国新聞記者の宮野史康さんが登壇しました。宮野さんは2014年に中国新聞に入り、山口などでの勤務を経た後、24年春から東京支社に異動。主な担当は原爆・平和報道で、日本被団協や外務省などが現在の取材先です。宮野さんは中国新聞について、被爆地・広島にあり、8月6日には社員の3分の1にあたる114人が犠牲になり、「原爆被害の当事者である新聞社だ。だからこそ核兵器廃絶や戦争の悲惨さを人類に伝える責務がある、という考え方で報道をしている」と説明しました。

 宮野さんは千葉市の小学生時代、学校に『はだしのゲン』の本があり、それが原爆のことに触れた最初の時でした。大学ではピースリングというサークルに参加し、大学院では国際政治や核政策を学び、オーストラリアに留学して核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の支部でインターンをした経験も持っています。

 新聞記者を目指したきっかけは、学生時代に国連本部でNPTの会議の取材をする中国新聞の記者と出会い、「記者になったら、核軍縮の現場で取材ができるんだ」と感じたことでした。最近では広島サミットの取材、日本被団協のノーベル平和賞受賞でのオスロでの同行取材など「自分が思い描いた、やりたい仕事ができているな」と感じているが、「これに至るには長い時間がかかった」と宮野さんは振り返りました。本当に自分の関心を生かして記事が書けたと感じたのは、入社7~8年後のことだったといいます。

 新聞記者は、入社後すぐは街ネタや警察取材などたくさんの仕事があるが、「自分でこういった取材をやりたいと思っていけば、自分の関心を生かせるような取材ができるのではないかと思っている」と宮野さん。「核廃絶を目指してやっているという意識で、仕事ができるのは、新聞記者のいいところだ。いろんな所に行っていろんな話が聴ける」と記者のやりがいについて語りました。

 ソーシャルビジネス分野からはボーダレスファウンデーション理事の中村涼香さんが登壇しました。中村さんは長崎出身の被爆3世。高校に入った時に平和学習の部活があり、活動を始めるきっかけになりました。高校時代は署名活動や、被爆者と一緒に平和公園で座り込みも。大学進学と同時に上京。仲間と一緒に「KNOW NUKES TOKYO」という学生団体を立ち上げ、ICANのキャンペナーとしてロビーイング活動などに取り組み、国連の会議にも参加しました。

 大学卒業後の進路について考える中で、「被爆者の平均年齢が86歳を超え、外にどんどん伝えていかなくてはいけない、という部分、被爆者が一番貢献してきた『核のタブー視』という世論の醸成の部分を、今の世代で担わなくてはいけないのでは」と思うようになったという中村さん。

 現在所属している「ボーダレス・ジャパン」と経産省が実施している社会起業家を育成するためのプログラムに参加した中村さんは、ここで初めてビジネスのイロハを学びました。中村さんは「ビジネスは外側に話を広げていく、他の人と話題を共有していくということに、すごく長けているものがある」と語りました。

 また広島の原爆資料館の来館者数は都内の人気の美術館の来館者数と全く引けを取らず、「すごいな」と感じた中村さんは、「原爆資料館そのものが日本や世界各地に移動できたら面白い」と考え、移動型の企画展を会社の事業として展開しています。24年は東大で「あたらしい原爆展」、今年は東京・日比谷で「へいわのつくり方展」を企画、開催しました。中村さんは「平和活動の中心を担ってきた被爆者がいなくなっていく時に、企業というアクターを積極的に巻き込んでいく必要がある」と強調していました。

 最後に登壇した国連広報センター所長の根本かおるさんは「広報の力で、人々を巻き込んで社会を変えることができるのだという手ごたえを、みなさんに感じていただきたい」と呼びかけました。国連総会の第1号決議が、核兵器を含む大量破壊兵器の廃絶に向けた決議だったことに触れ、「国連のDNAの中に核廃絶というものは刻まれている。そういう覚悟で、私たちは伝えるという仕事に向き合っている」と説明しました。

 根本さんが大学を出て最初に就いた仕事はテレビ局のアナウンサー。記者の方が向いていると考え、3年後に政治部に異動し、政治記者として5年間、仕事をしました。マスコミでのやりがいについて、根本さんは「声なき声を届けること」を挙げました。

 専門性を身に付けるため、31歳の時に会社を休職してニューヨークにあるコロンビア大学に留学。国際難民法を学んでいましたが、国連の職員や高官が講師として毎日のように大学院に来ていました。その様子を見て「国連の職員もいいな」と感じた根本さんは、JPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)という制度があることを知り、試験を受けて、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に転職することができました。JPOの終了後もUNHCRに勤めることができ、15年間勤務。難民の保護政策をどう現場で実施していくのかを専門にやっていました。

 根本さんは「国連での広報は目的があってやっており、causeに対する支援を取り付けるための広報だ」と指摘。国連の広報アプローチは「3つのW」(①WHAT課題を科学的に正しく提示する、②WHY CAREそれがなぜ聴衆と関係があるのか、③WHAT NOW課題解決のためにいま、どういう行動を取る必要があるのか)だと説明しました。

 根本さんが強調したのは、測ることの大切さです。国連広報センターとメディアが連携して実施している「1.5℃の約束」気候アクションキャンペーンで行っているキャンペーンのインパクト調査のデータを見せながら、どのようなメッセージが人々の胸に響くのか、どのような人物が信頼されているのかを測定し、それをキャンペーンのデザインに反映していくことの重要性を解説しました。

 日本でも、巻き込み型の広報で大きく人々の意識を変えた事例として、根本さんはSDGsを挙げました。電通の調査によると、SDGsのことを知っていた人は2018年には15%にも満たなかったが、社会のあらゆるアクターが推進した影響もあり、23年には9割以上の人が知るようになった。学校でSDGsについて学んでいる10代は、SDGsの内容まで理解している割合が他の年代よりもひときわ大きく、違いが顕著だ。根本さんは「考えながら人々を巻き込むような広報を重ねれば、結果が出るということだ。平和を伝える、核廃絶を伝えるという時にも、何のために、誰にどんなメッセージを届けるのか、どんなアクションを取ってほしいのか。その成果もしっかり測って、PDCAサイクルに戻していく。そういう努力があれば、広報で世の中を変えることができる」と力強く語っていました。

 第2部は会場を移して、6人の登壇者を参加者が囲んで6つのグループに分かれて、懇談をしました。途中で2回グループを入れ替える形式で交流し、各登壇者の仕事のやりがいや苦労に関する質問などが飛び交い、盛り上がりを見せていました。

核兵器をなくす日本キャンペーンボランティア 竪場勝司

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